私立文系大学卒会社員の米国株で徐々に逆転日記

米国株への投資で徐々に人生の逆転を目指すしがない私立文系大学卒会社員のブログです。

世界の謎と不思議の探検10 大浴場で有名なカラカラ帝はアントニヌス勅令を発布した皇帝であり暴君

ローマに大浴場を建設したカラカラ帝は世界史の教科書でも取り上げられており、けっこう有名な皇帝だ。
浴場がカラカラに乾いているというイメージで暗記した学生もいるだろう。カラカラ帝は209年~217年にローマ帝国に在位した皇帝である。

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カラカラ帝が建設した大浴場

 

212年にすべての属州民にローマ市民権を与えるアントニヌス勅令を発布する。 カラカラ帝という名前なのにどうしてアントニヌス勅令なのかと疑問に思うが「カラカラ帝」の本名はマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌスであり、勅令の名は本名に由来する。

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世界の謎と不思議の探検9 ローマの三頭政治

共和政ローマ末期、ローマでは3人の実力者による寡頭政治が行われる。(寡とは少ないというような意味。)これを三頭政治と呼ぶ。
三頭政治は次の2回行われたが、正式な公職として三頭政治が行われたのは2回目の方である。

 

当時三頭政治と呼ばれたのは2回目の方だけであった。後に1回目の方も三頭政治と呼ばれるようになる。

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ローマの政治・経済の中心地であったフォロ・ロマーノ


■第一回三頭政治
カエサル、ポンペイウス、クラッススによって行われる。非公式なもの。

・ユリウス・カエサル
当時、民衆派として絶大な人気を誇るが、この時期、ポンペイウスやクラッススと比べると力は弱い。後にポンペイウスと覇権を争う。ファルサロスの戦いでポンペイウスを破る。英語で7月を意味するJulyはユリウス・カエサルの名に由来する。

文筆家としても有名で「来た、見た、勝った」、「賽は投げられた」、「ブルータスお前もか」などの名言も有名。「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)の言葉はフィリップ・モリスのタバコ、例えばマルボロのロゴにも使われている。

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ユリウス・カエサルが軍を率いたままルビコン川を渡る際に言った言葉だとされている。当時、軍を率いてルビコン川を越えるとローマに対する反逆とみなされた。

 

  ・ポンペイウス
マグヌス(偉大な)と称された武将。一連の遠征で活躍しローマの領土を拡大するなど活躍したが、元老院に警戒され冷遇されたことで元老院に不満を抱きカエサルに近づく。後にカエサルと争い、逃れた先のエジプトで殺される。

  

・クラッスス
反乱を起こした奴隷のスパルタクスを討ち取ったことで有名。財産家であり大富豪。カエサルへの資金的な支援を多く行った。元老院でも力を持っていた。パルティアへの遠征で失敗。敵の罠にかかって殺害される。

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読書水先案内 塩野七生『レパントの海戦』

 

コンスタンティノープルやロードス島を手中に収め、地中海世界における覇者として振る舞うオスマン帝国。キリスト教徒は地中海に板切れ一つ浮かべることができないというほどの状況となってしまう。

 

レパントの海戦(新潮文庫)

オスマン帝国はヴェネツィア共和国の支配下にあるキプロス島をも攻略する。これに対しヴェネツィア共和国、ローマ教皇、スペイン王国、ナポリ王国、ジェノバ共和国、マルタ騎士団は連合海軍を結成しギリシャ西海岸のレパント沖でオスマン帝国との海戦に挑む。

Battle of Lepanto

Unidentified painter / Public domain

レパントの海戦

 

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その時米国が動いた24 ブラジルとトルデシリャス条約

南アメリカ大陸のほとんどの地域はスペインの植民地になるがブラジルはポルトガルの植民地であった。1500年にブラジルを発見したのもポルトガル生まれのカブラル。ブラジルという国名はこの地域に生えている染料が取れる木(パウ・ブラジル)の名前に由来する。

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イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンにまたがる世界最大の滝である
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エジプト古代文字の解明はロゼッタストーンなしでは不可能だった

かのナポレオンがエジプトに遠征したときにロゼッタという港町で発見された石碑がロゼッタストーンである。
1801年にイギリスがエジプトのフランス軍を降服させたため、ロゼッタストーンはイギリスの手に渡り、それ以来イギリスの大英博物館で展示されている。フランスが発見したのに、イギリスの博物館に展示されているという点は注意。

ロゼッタ・ストーンは以前は大英博物館の入り口付近にむき出しのままで展示されていた。私も見学に行ったときに恐る恐る手で触れてみた。現在はケースに収められており手で触れることはできないそうである。残念だがロゼッタ・ストーンの保存のためには仕方ないことかもしれない。

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大英博物館でロゼッタストーンが展示されている
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読書水先案内 塩野七生『ロードス島攻防記』

コンスタンティノープルを征服したメフメト2世のひ孫スレイマン1世の時代、オスマン帝国はますます強大になった。そのオスマン帝国にとって喉元のトゲのような存在がロードス島に拠点を置く聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)であった。

ロードス島攻防記 (新潮文庫)


聖ヨハネ騎士団はヨーロッパのキリスト教勢力の最前線として、オスマン帝国に対して海賊行為を続ける。

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読書水先案内 塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』

西暦330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世はギリシア人の植民都市ビザンティウムの地に都市を建設する。この都市は「コンスタンティヌスの町」という意味でコンスタンティノポリスと呼ばれる。395年にローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂するが、この後、東ローマ帝国の首都としてコンスタンティノープルは繁栄する。

 

コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)

 

 

 

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 コンスタンティノープルは1204年の第4回十字軍に占領されたのみでそれ以外は占領されたこともなかった。1000年以上も栄え続けたコンスタンティノープルの占領と東ローマ帝国の征服を目指したのはオスマン帝国のメフメト2世。そしてこの時の東ローマ皇帝は奇しくもコンスタンティヌスの名を持つコンスタンティヌス11世であった。

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