当ブログも、とうとう100記事に達した。その記念としてノイシュバンシュタイン城を取り上げてみたいと思う。
カリフォルニアのディズニーランドにある眠れる森の美女の城はノイシュバンシュタイン城をモデルとしていると言われている。ノイシュバンシュタイン城は中世の建築物のような雰囲気をただよわせているが、実は明治維新のころに作られた新しい城である。
Heinrich Georg Dendl / Public domain
ノイシュバンシュタイン城を建設したバイエルン王ルートヴィヒ二世
オーストリアに勝利しドイツ統一を目指すプロイセンであったが、バイエルン王国のルートヴィヒ二世はプロイセン主導によるドイツ統一には反発していた。
もちろん大国オーストリアにさえも勝利したプロイセンにとって、バイエルン王国などは軍事力において物の数ではない。しかし仮にプロイセンとバイエルン王国の間で戦争が起こると、隣国特にフランスの干渉を招く恐れがあった。
そこでビスマルクは驚きの策を立てることになる。なんと先にフランスとの戦争を起こし、これを屈服させた上でドイツ統一を図るという策である。
連邦公文書館 / Public domain
ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルク、彼は首相としてドイツ統一を成し遂げる
戦争を始めるには理由が必要だ。
小さな国が集まり出来たばかりの北ドイツ連邦のことである。 正当な理由がなければ士気が上がるわけもなく、厭戦気分が広がることは目に見えていたからだ。
そうこうするうち、まもなくチャンスがやってきた。
1868年スペインで革命が起こり女王イサベル二世は亡命する。その後普通選挙が実施され、スペインの政体を立憲君主制とすることが決まったが、新しい国王を誰にするかが問題となった。
プロイセンの王家はホーエンツォレルン家である。そのホーエンツォレルン家の本家にあたる家柄のレオポルトに白羽の矢が立った。
フランスにとって、ホーエンツォレルン家の者がスペイン国王に就任するということは非常に問題である。ホーエンツォレルン家が支配する国によってフランスの東西を挟まれてしまうからである。これはフランスの安全保障上極めて大きな問題であった。
Wilhelm Kuntzemüller / Public domain
プロイセン王ヴィルヘルム一世、ドイツ統一を果たしドイツ皇帝に就任する。
フランスはプロイセン国王ヴィルヘルム一世にレオポルトにスペイン王位を継がせないように要求した。ヴィルヘルム一世はその要求を承諾した。この約束だけでフランスが満足していればそれ以上の問題にはならなかったかもしれない。
ところがフランスは今後、永久にホーエンツォレルン家からスペイン王の候補者を出さないよう、エムスで静養中のヴィルヘルム一世を訪ねて、確約を求めた。フランスとしてはフランス国民を安心させるとともに、プロイセン国王の権威を貶める意図があった。
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このあまりにも無礼なフランス大使の態度にヴィルヘルム一世は要求を明確に拒否。丁重に大使を追い返した。
この事件の内容を受け取った電報で知ったビスマルクは電報の内容を短くまとめ新聞に発表した。
本来の内容よりも、ヴィルヘルム一世がより毅然とした態度で大使を追い返したように受け取れる内容となっていた。
この事件はエムス電報事件と呼ばれている。ビスマルクが電報の内容を偽造したと言われることもあるが、正確には偽造というより、嘘にならない範囲で内容をまとめただけである。それでも大きな影響を与えたことは間違いない。事実、ヴィルヘルム一世もこの記事を見て「戦争が起こるぞ」と叫んだと言われている。
プロイセンだけでなく、北ドイツ連邦の国民は国王を侮辱されたとして大変怒った。フランスに対する敵愾心が非常に強くなったのである。普墺戦争ではプロイセンと戦ったオーストリアの国民でさえも、フランスに対する敵対心を強くしたという。
フランスとプロイセンの世論は一気に戦争を求めるものとなっていった。フランスはプロイセンに宣戦布告し普仏戦争が発生する。
戦争はプロイセンがフランスを圧倒した。ナポレオン三世はプロイセン軍の捕虜となった。これによりナポレオン三世は失脚する。
(アレクサンドル・カバネル氏による/ Public domain)
ナポレオン三世、かのナポレオン・ボナパルトの甥である。フランス皇帝に即位し帝政を行うが、普仏戦争でプロイセンの捕虜となり失脚した。
パリを包囲したプロイセンはフランスに勝利しプロイセン王ヴィルヘルム一世はドイツ皇帝ヴィルヘルム一世として即位する。
こうしてプロイセンによるドイツ統一は完成したのであった。
ドイツ統一が進む中でバイエルン国王ルートヴィヒ二世はプロイセンによるドイツ統一には反感を持っていたがビスマルクとの関係は良好であった。
ビスマルクはルートヴィヒ二世が中世騎士道精神に非常に強い憧れを持っていることを知っていた。そしてそのルートヴィヒ二世を助けるために多額の援助を行ったと言われている。ノイシュバンシュタイン城はその資金によって建設されたと言われている。
ルートヴィヒ二世自身は自分の死後のノイシュバンシュタイン城をすぐに破壊するように求めていたか、実際には城は破壊されることなく、一般に公開される。多くの観光客が世界中から訪れている。
ノイシュバンシュタイン城をはじめとしたルートヴィヒ二世による城の建設はバイエルン王室の財政を非常に悪化させた。そのため、現在でもバイエルンにおいてルートヴィヒ二世の評価は高くない。
ノイシュバンシュタイン城は政治上の機能もなければ軍事上の機能もない。コンクリートとモルタルで作られており、ドイツの城塞に必須の施設を欠いているため、世界遺産でもない。【※】
それでも、この美しい城は世界中の人々から愛されている。
【※】ノイシュバンシュタイン城は2015年にリンダーホーフ城やヘレンキームゼー城とともにユネスコの世界遺産暫定リストに登録された。ドイツ政府が2024年に世界遺産登録申請を行う可能性があり、世界遺産に登録される可能性はある。(2022年9月追記)