大航海時代においてスペインはかなりの強国であった。スペイン人は多くの船で世界中に繰り出し、16世紀半ばには日本ともすでに接触があった。例えばイエズス会の宣教師としてキリスト教を広めようと日本にやってきたフランシスコ・ザビエルはスペイン人だ。
アメリカ大陸の地理上の発見者クリストファー・コロンブスはジェノバ出身ではあるが、スペインの支援を受け、インドに到達するルートを探すための航海に出た。歴史にもう少し詳しい方なら、アルマダについてもご存知だろう。それはスペインが持つ強力な艦隊。世界を震え上がらせ、無敵艦隊と呼ばれた。スペインは強力な艦隊と旺盛な領土拡張欲も相まって、世界中に多くの植民地を持ち、太陽の沈まない国と呼ばれていたことさえあった。
このような強国スペイン。長い歴史を持つ国だと思われがちである。ところが、イベリア半島に存在していた王国が統合され、スペインが成立したのは15世紀のことである。意外とその歴史は短い。
紀元前10世紀頃、カルタゴを拠点とするフェニキア人はイベリア半島各地とも盛んに交易を行った。紀元前3世紀、フェニキア人はイベリア半島の経営を積極的に行うようになり、イベリア半島各地にいくつも都市を建設する。
その後、カルタゴの将軍ハンニバルはローマとの第二次ポエニ戦争で、イベリア半島を拠点とし、ローマに攻め込む。有名なハンニバルのアルプス越えはこの時のことだ。最初は連戦連勝を重ねたハンニバルだが、さすがのローマの国力にはかなわず敗退。逆にイベリア半島へのローマの侵入を許してしまう。こうして紀元前3世紀の後半にはイベリア半島はローマの属州となる。このイベリア半島のローマの属州はヒスパニアと呼ばれた。このヒスパニアという言葉は「うさぎの海岸」や「うさぎの島」というような意味であり、後のスペインの語源になる。このような呼び名 から、当時のイベリア半島がローマと比べてかなりの僻地であったことがうかがえる。
5世紀にはゲルマン民族が侵入し、イベリア半島には西ゴード王国などの国家が建設された。その西ゴード王国も長くは続かず、8世紀にはイスラム勢力のウマイヤ朝に滅ぼされる。こうしてイベリア半島の大部分はイスラム勢力が治める地域となる。アラビア語でイベリア半島は「アル・アンダルス」と呼ばれた。これはアンダルシア地方の語源である。また、イベリア半島に住むイスラム教徒はモーロ人と呼ばれる。
イベリア半島を支配したウマイヤ朝はピレネー山脈を越えてフランク王国への侵入を試みるが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰カール・マルテルに敗れ、その野望は潰えてしまう。
その後、ウマイヤ朝は滅亡。イベリア半島に後ウマイヤ朝が建国される。後ウマイヤ朝の都コルドバはイスラム文化の中心地として栄える。後ウマイヤ朝は200年近く続くがそれも滅亡。11世紀頃にはイベリア半島にいくつものイスラム教徒の小王国が成立した。イベリア半島全体を統治する国家は現れなかった。
13世紀から14世紀にかけて、ナスル朝によってグラナダにアルハンブラ宮殿が建設された。アルハンブラ宮殿は、スペイン・ グラナダに位置するイスラム建築の最高傑作。イベリア半島におけるモーロ人の芸術と文化の象徴である。
このように、長い間イベリア半島はイスラム教徒の支配を受けていたが、徐々にキリスト教のカトリック勢力が力を増してきた。キリスト教徒は長期にわたりイスラム教徒に支配をされてきたイベリア半島を再征服する活動を進めた。これがレコンギスタ(再征服運動)である。レコンキスタはイベリア半島の有力な諸国家、ポルトガル、カスティリャ、アラゴンなどによって進められる。
そしてイベリア半島を完全にキリスト教徒の手に取り戻す大きなきっかけとなったのがスペインの統合である。
1469年、カスティーリャの女王イサベルとアラゴンの王フェルナンドが結婚する。これがスペイン合同への第一歩となった。1479年にはフェルナンドがアラゴン王に即位。こうして両王国が事実上統合され、スペイン王国が成立した。1492年には、ナスル朝朝グラナダ王国を滅ぼし、イベリア半島からイスラム教徒が駆逐された。この1492年という年号を見て何かを思い出す方がいらっしゃるだろう。そう、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見した年である。レコンキスタが完了したことにより、スペイン王国の財政に余裕ができたことでコロンブスはインドを発見するための航海に出ることができたのである。
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