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その時米国が動いた6 1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見

エンリケ航海王子が他界したあと、1473年にはロボ・ゴンサルヴェスが赤道を通過した。1481年にジョアン2世がポルトガル王に即位した。ジョアン2世の時代になると、アフリカ南端を発見して、これをまわり、アフリカ大陸の東岸に到達し、アジアかアフリカにあるプレステ・ジョアンの国を探すことが目的となってきた。

ジョアン2世は1486年に船団を派遣。この時はコンゴ川にまで到達するが、アフリカ南端までは到達できなかった。


1487年には大船団を派遣する。指揮官として船団を率いていたのはバルトロメウ・ディアスであった。

Bartolomeu Dias, South Africa House

RedCoat (en:User:RedCoat10) / CC BY-SA

ポルトガルの航海者バルトロメウ・ディアス

 

バルトロメウ・ディアスはアフリカ大陸を南下する。
1488年、オレンジ川の沖に到達した時に暴風に襲われたので、これを避けようと南西に進まざるを得なくなる。

 

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そのまま2週間近くも漂流してしまう。あまりに沖から離れてしまったため、再び陸に近づこうと東に進むが、陸地を発見できない。そのため北上したところ、陸地が東側ではなく、西側に現れた。

いつの間にかバルトロメウ・ディアス達はアフリカ大陸南端を越えていたのだった。
アフリカ大陸南端のアガラス岬を超えてインドへ行けることがわかった時点で船団は帰路についた。帰路に発見した岬を「嵐の岬」と名付け、ポルトガルに帰国する。

 

バルトロメウ・ディアスは帰路に喜望峰を発見した

バルトロメウ・ディアスは帰路に喜望峰を発見した

 

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喜望峰の周辺はいつも風が強く海も荒れている。バルトロメウ・ディアスが「嵐の岬」と名付けたのも納得である

岬の周辺は常に強風が吹き荒れている。漂流したバルトロメウ・ディアスは「嵐の岬」と名付けたが、インド到達が可能になったことを喜んだジョアン2世はこの岬を「喜望峰」と名付けた。

 

 

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南緯40度の付近は風を遮る陸地が少ないため、常に強風が東に向かって吹いている

  

なお、先述のとおり、アフリカ大陸の南端は喜望峰ではなく、アガラス岬である。アガラス岬は大西洋とインド洋の境目ともなっている。

 

 

   

 

 

以前はさほど知られていなかったが、南アフリカはワインの名産地である。