1437年、エンリケ航海王子はモロッコのタンジールを攻撃した。タンジールはセウタの南西の港町である。この攻撃は失敗し、イスラム勢力に撃退されてしまう。この時に弟のフェルナンド聖王子がイスラム勢力の捕虜になる。フェズ王国の君主がセウタと引き換えにフェルナンド聖王子を解放すると言ってくるが、フェルナンド聖王子はこれを拒否。ポルトガルも応じなかった。6年後にフェルナンド聖王子は他界する。
1441年にはポルトガルの船団はブランコ岬に到達する。ブランコ岬という岬はブラジルにも存在するが、ポルトガル船団がこの時到達したのはモーリタニア沿岸であり、別の場所である。
この後もポルトガルの船団はアフリカ西岸南下に挑み続ける。
ポルトガルによるアフリカ西岸の探検
1419年 | マデイラ諸島発見 |
1427年 | アゾレス諸島発見 |
1434年 | ボハドル岬周辺の探検に成功 |
1435年 | ボハドル岬より240km南へ到達 |
1437年 | タンジール攻撃に失敗 |
1441年 | ブランコ岬を発見 |
1445年 | ヴェルデ岬を発見 |
1450年 | カーボベルデにて群島を発見 |
1460年 | シエラレオネ沿岸に到達 |
1460年になり、ポルトガルはシオラレオネに到達する。この年にエンリケ航海王子は66年の生涯を閉じる。プレステ・ジョアンの国は発見できなかったが、イスラム勢力を迂回してアフリカ西南岸へと至る航路を発見した。ポルトガルが黒人社会に直に接することができるようになったのである。もっとも、アフリカの黒人にとっては不幸なことであった。すでにこの時期から、ポルトガルはアフリカ西岸にて象牙や金、黒人奴隷を獲得しはじめたからである。