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その時米国が動いた15 アメリカと呼ばれるようになった新大陸

コロンブスは4度目の航海を企画する。2回目の時とは異なり、王からは僅かな援助しか得られなかった。1502年に出航するがパナマ周辺を探検した後に難破。救助されスペインへ帰る。帰国後、1506年にコロンブスは死去する。
4回目の航海の後、スペイン王室はコロンブスに対して非常に冷たくなっていた。新大陸でのコロンブスのふるまいはスペイン王室の不興を買っていた。最大の理解者であったイサベル女王が死去したのも大きかった。

 

 

Amerigo Vespucci (with turban) - cropped

アメリゴ・ベスプッチ

スペイン王フェルナンド2世はアメリゴ・ベスプッチに新世界の探検を依頼する

 


1498年に行われたコロンブスの3回目の航海の直前、スペイン国王フェルナンド2世はフィレンツェ出身の探検家、アメリゴ・ベスプッチに要請し、カリブ海沿岸を探検させていた。さらに1499年にはカリブ海からブラジル北岸に至る探検をさせる。

1500年にはポルトガルの命令でインドに向かった別の探検家カブラルがブラジルを発見した。ポルトガルはトルデシリャス条約によりここをポルトガルの領土であると主張する。これは認められ、ブラジルはポルトガルの領土となる。ブラジルが南米で唯一スペインではなく、ポルトガルの勢力下に入ったのにはこういった経緯があった。

 

Pedro alvares cabral 01

カブラル

カブラルは1500年にブラジルを発見した。正確にはインド遠征隊を率いてインドを目指していたが、喜望峰付近で嵐により漂流。ブラジルへ漂着したのだった。なお、実際にはスペイン人のビセンテ・ヤーニェス・ピンソンのほうがカブラルより少し先にブラジルに到達しているが、彼はブラジルをインドと思い込んでしまっていた。そのため、一般的にはカブラルがブラジル到達者として有名である。

 

1501年、ポルトガルはブラジルが島なのか大陸なのかを調べるために、アメリゴ・ベスプッチを呼び寄せ、調査させることになった。航海でアメリゴ・ベスプッチは南米のアルゼンチン付近まで南下した。ここは南緯50度である。以前、喜望峰の記事で「南緯40度の付近は風を遮る陸地が少ないため、常に強風が東に向かって吹いている」と書いたが、南緯50度も同様の理由で非常に風が強く、いつも海が荒れている。アメリゴ・ベスプッチはここで引き返すことになった。

 

www.chatesen.info

 

アメリゴ・ベスプッチは1503年に『新世界』を発表する。この論文の内容は以下のとおりである。

 

南米大陸がアジア最南端(マレー半島、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の経度をはるかに南へ越えて続くため、それが既知の大陸のどれにも属さない「新大陸」であることに気づいた。ちなみに当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は南米大陸についてのみ論じている。ヨーロッパの古代からの伝統的世界観、アジア・アフリカ・ヨーロッパからなる三大陸世界観を覆すこの主張は当時最先端の知識人層である人文主義者たちにはセンセーショナルに受け入れられたが、ヨーロッパ全体にすぐ浸透したわけではない。

「アメリゴ・ベスプッチ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

 


生涯コロンブスは自分が到達した場所をインドの一部と信じていたと言われている。自分が到達した場所を新しい世界とはあまり認識していなかったようだ。一方、アメリゴ・ベスプッチは大陸を詳しく調査し、新しい世界と認識していた。

後に新大陸はアメリゴ・ベスプッチにちなんでアメリカと呼ばれるようになったのである。

 

Americi Vespucii 1507

アメリゴ・ベスプッチによって、この地が新世界であることが発表された。そのため、新大陸はアメリカと呼ばれることになった。なお、はじめは「アメリカ」と呼ばれたのは現在の南アメリカのみであるが、後に北アメリカの部分もアメリカと呼ばれるようになった。