1484年、航海への援助を引き出そうとコロンブスは活動を開始する。
コロンブスが主張した
アフリカ南端を迂回しなくても、西に進むとアジアに到達できる
という説にポルトガル王ジョアン2世は興味を持った。ジョアン2世は、1481年にポルトガル国王に即位した人物であり、
で取り上げているように、アフリカ南端を発見するための探検を推し進めている国王である。
実際に、ジョアン2世が派遣したバルトロメウ・ディアスは1488年に喜望峰を発見している。ポルトガルの興味はアフリカ南端を回ってアジアに到達することにあった。そして、それは実現間近であった。西回りでアジアに到達できるという案には、たとえ興味があったとしても、いまさら乗りにくかったであろう。また、比較的豊かなポルトガルでも、西廻り航路の開拓にまで資金を出すことは難しかった。
資金援助の検討はされたが、ポルトガルの支援を受けることはできなかった。
ポルトガルの資金援助を受けることを諦めたコロンブスはスペインに向かった。
スペインといえば1469年にカスティリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚して統合された国である。イサベルは1474年にイサベル1世としてカスティリャ女王となり、フェルナンドは1479年にフェルナンド2世としてアラゴン国王となった。スペイン王国はこのとき成立した国家である。
1469年にカスティリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚した
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スペイン王国が成立した時点では、スペインはレコンキスタと呼ばれる国土回復運動の最中であった。これはイスラム教徒に長い間支配されていたイベリア半島をキリスト教国家の手に取り戻そうという運動である。イベリア半島の大部分はスペイン王国の支配下にあったが、まだグラナダにはイスラム王朝であるナスル朝グラナダ王国が命脈を保っていた。
グラナダ王国攻略には多額の軍事費を必要とする。レコンキスタを進めるスペイン王国も、西廻り航路開拓事業に乗り出すのは難しい状況だったのである。
日本でもよく食べられているパエリアはアラゴン王国バレンシア地方の名物料理である。
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