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源義経は鎌倉に入れてもらえなかった訳ではないかもしれない

壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、その武勇により歴史に名を刻んだが、その後の運命は複雑なものとなった。義経と兄・源頼朝との関係は、義経が後白河法皇から検非違使に任命されたことをきっかけに悪化したとされている。吾妻鏡によれば、この任命は頼朝の承諾を得ずに行われ、義経は鎌倉に入ることを許されず、腰越に留め置かれた。この時、義経は自身の弁明として腰越状を書いたとされるが、それでも許されることはなく、最終的に京に引き返すこととなった。


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しかし、この一連の出来事については、異なる見方も存在する。実際には義経が検非違使に任官された際、頼朝の承諾を得ていたという説もある。さらに、京都大学名誉教授の元木泰雄氏によれば、もし頼朝と義経の関係が完全に悪化していたならば、頼朝は義経を京に帰らせることはせず、即座に拘束していたはずである。この点から、この時点での関係が完全に断絶していたわけではない可能性が示唆される。

 

そのうえ、その後の展開において、頼朝は義経を伊予守に任官させている。この時期、伊予守は受領の中でも高い地位にあり、恩賞としては決して悪いものではなかった。しかし、ここから問題が発生した。通常、検非違使と受領を兼任することはできないが、義経は検非違使と受領を兼任した。これを可能にしたのは後白河法皇の力であった。義経が検非違使と受領を兼任し、鎌倉への帰還を拒んだことが、頼朝との関係を決定的に悪化させたとされる。また先に義経が鎌倉に入ることを許されなかったという点についても異説があり、義経は鎌倉で頼朝と面会しているが、その場で頼朝は冷たい態度に出たという。さらに吾妻鏡の腰越状に関する記述は事実ではなく、腰越状の内容そのものも、頼朝の冷酷さを強調するための、後世の捏造という可能性もあるようだ。

 

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