私立文系大学卒会社員が米国株で徐々に収入を得ながらプライベートキャンプ場を作る

私立文系大学卒会社員が米国株で徐々に収入を得ながらプライベートキャンプ場を作っていくブログです。

平清盛が奈良の都を焼き討ち。東大寺の大仏も被害にあってしまう

年代語呂合わせで最も有名なものはおそらく「鳴くよ(794年)うぐいす平安京」だと思う。その次に有名なのは「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」、そしてさらにその次に有名なのが「なんと(710年)素敵な平城京」ではないだろうか。そしてこの語呂合わせは非常に優れた語呂合わせだと思う。なぜならば南都とは平安京の南にある都、つまり平城京のことを意味している言葉だからである。これが、もし、納豆ネバネバ平城京だと、南都の意味が失われ、後ろの都の名前が平城京でない他の都の名前でも成立するため、単なる年代を覚えるだけの語呂合わせとなってしまい、かなり質が落ちる。

さて、この南都、奈良の都に東大寺の大仏(東大寺盧舎那仏像)があることは説明不要だと思うが、12世紀後半、大仏は平清盛による焼き討ちの被害にあっている。この事件が「南都焼討」である。

 

平治の乱の後、前例のない権力に上り詰めた平清盛は奈良の南都寺院の伝統的な特権を無視して山城国(現・京都府)の統治を固めようとした。特に、皇室や関白、貴族とのつながりを持つ東大寺や興福寺は、宗教的権威だけでなく、「僧兵」と呼ばれる武装した僧侶の集団を通じて世俗的な力も行使していた。1179年の政変後、後白河法皇と関白が清盛の命令により罰せられ、これらの寺院が公然と反抗する方向に動いたことで状況はさらに悪化した。

1180年12月27日、平清盛の命を受けた平重衡は数千から4万と推定される大軍を率いて奈良に向かった。翌日、平家の軍勢が防衛線を突破し、市内で激しい戦闘が繰り広げられた。12月28日の夜に、不明瞭な状況の下、火が放たれ、奈良の建築物や文化遺産の多く、特に東大寺や興福寺の壮大な構造物が炎に包まれた。この火災は意図的なものではないとの説もあるが、『延慶本平家物語』には平家による戦術的な放火であるとの記述もある。

 

南都焼討ちにより、南都の多くの建造物が失われた。東大寺の大仏をはじめ、重要な文化遺産も失われた。翌年には平清盛が謎の高熱を発して死去。1185年には平家も滅亡した。これらは南都焼き討ちに対する仏罰なのかもしれない。

きながら語られることから「平曲」と呼ばれ、日本の各地で伝承されてきた。

 

 

www.chatesen.info

www.chatesen.info

www.chatesen.info

www.chatesen.info

www.chatesen.info

www.chatesen.info

www.chatesen.info

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村